会社員時代-”インドネシア”

1991年11月7日 日本出発

大阪空港(伊丹)から、シンガポール経由でジャカルタへ出発。

広島から来てくれた長姉と妻と三人で、出発までゆっくりと別れを惜しむかと思っていました。
しんし、空港に着いてみると、上司・同僚・もんじゅの時の所長や同僚までも大阪まで、わざわざ見送りに。
涙を抑え :mrgreen: 、皆との挨拶が済み、流れでゲート通過。

通過すると「あれ、ロビーにいる人たちを目にする場所がない」 なんとも不完全燃焼状態で搭乗開始まで待合席で不安と期待の時間をつぶす。

写真左/
晴天の伊丹空港
見送りデッキに妻たちがいる筈。
写真右/
建設途中の関西空港

中継のシンガポール・シャンギ国際空港へ高度を下げ、進入。
積乱雲の間を曲がりくねり高度を下げると、眼下に多数の貨物船の沖待ち。 さすが世界の貿易港。
乗り継ぎ待ちの3時間、空港内を散策(ウイング両端までうろうろ)。 空港も、さすがランクインするハブ空港。

深夜に、Jakarta チェンカレン空港に到着。 ゲートに同僚が迎えにきてくれている。ホッ 😳

当日は、ホテルのロビーでビールで乾杯の後、宿舎の単身寮に到着。
「6時に食堂で待機ね」で、一人降ろされメイドに一言二言指示して自宅へ。
私は、メイドに案内されて一室に。 日本語も英語も通じる訳もなく、双方、笑顔でごまかす。 😉


<深夜到着~翌朝>

取り敢えず、トランクから着替えを出し、「水のシャワー」と「ひしゃく付きトイレ」で爆睡のつもりが、「サティ~」「キッキッキッ」「カーン・カーン」が夜中じゅう。
そのうちに空が白みかける頃、「ア~~<・イ~~>・ウウ↑~↓~♪」で、パッチリ目覚め。

6時前に食堂に行くと、次期現地法人社長(建築)と実力派取締役(総務)と飄々取締役(土木)が現れ、各自定位置?に座る。
順次、挨拶を済ませ。勧められた席に座る。

「杉さーん、おみそ汁と漬物と卵焼き、海苔つけてねー。トロンや~」
「パンと目玉焼きね~。 マウ・チュパットや―」
「サヤ、ミイクワやー」
「泉ちゃん、何する?。好きなもん言ぃな」
『えっ。 ご飯とみそ汁を。  杉さんって、日本人の方ですか?』
「インドネシア人や、単語が解っているから出てくる。 難しいものは言うな。 味・・・は、慣れろ」  “納得” :mrgreen:

食後、 次期現地法人社長の車に乗って本社へ。 ビュー 😯
重役車の運転手「スゴッ。 わっ、わっ、わっ・・・・」で本社到着。
多数のガードマンの敬礼をうけロビーに入る。

「サラマッパギー」・「パギパー」・「パギブー」♪♪♪ 賑やかー。

受付嬢、美じ~ん。 可愛い日本人系とアラブ系グラマス。 😯 :mrgreen:

※「サティ~」 焼き鳥の屋台の掛け声
※「キッキッキッ」 ヤモリの鳴き声が天井から・蛍光灯から
※「カーン・カーン」 サトパン(警備員)が巡回中に鉄製の柵を警棒で叩く音
※「ア~~<・イ~~>・ウウ↑~↓~♪」ご存じコーランがスピーカーから大響音で


長さ10×3mは有ろうかと思える会議テーブルのあるミーティングルームで待機。
バラバラと日本人スタッフが入室。 そのつど挨拶。 最後に、現地社長の登場。

着任挨拶と日本人スタッフの自己紹介後、業務報告のあと、社内を次期社長に連れられて挨拶回り。
そして、担当の建築部見積課の自席に着く。

40歳 PT.JAYA OBAYASHIに出向、本社で見積業務を担当。(ジャカルタ特別市)

本社組織は、社長(日本人)の元、総務・建築(設計・見積・施工)・土木・設備に総勢500人?。
総務と建築にはインドネシア・日本人の両部長。 私は建築見積課の課長で就任。
前任者は赴任中に中国系インドネシア人と結婚、今回は4年経過で帰任。 インドネシア語がめちゃ上手な「痛風持ち」
一月の引き継ぎ心配だなー。(先方もそう思っていたかも 🙁 )

課員は、総勢12人。
第一印象、『ジャワ人は、女性の方が存在感がある。 男性はなんだか細い』

席に落ち着いたかと思うと、次々に諸手続きの嵐。

1.就業許可の書類のサインの山。(この時は日本語で) ※1.
2.写真の手配
3.予防接種の残り
4.在留届を日本大使館へ
5.在Jakarta日本人会の入会手続き
5.自動車免許書の手続き ※2.
6.専用車と運転手の紹介 ※3.
7.・・・etc ※4.

※1. 一段落つけない状態が続く、1週間後「ここは外国、サインの世界」。 全てがサイン。
幾つかのサインを造り、スタッフにどれが良いか聞き決定。 サンプルのサインを総務スタッフに渡す。
サインの差が良くわかるな~と感心する。
以後(帰国後も)、全てに使用。入札書類の千ページを超える明細書も全てのページに見積責任者のサインが必要。
因みに、サインはFullと簡略(花押的)の二つが必要。

※2. 在留・就労許可が下りた翌日、社長に「チョット、一緒に行こう」と誘われてボルボに便乗。
これまたピューと着いたところが「自動車免許センター」受付の警官に案内されてVIPと書かれた別室へ。
写真・サイン・拇印の小一時間の手続きが終わり免許書を受け取る。
警察官の見送りと握手で・・・・?。
機能的な免許書です。 顔写真、身長、血液型、国民登録番号(外国人番号)、住所、サイン、拇印、バーコードがセットの小型カードです。(日本より進んでいる)

※3. 着任当日の午後、手配師風のスタッフが「トワン、ロッシーディや」と一人の男を紹介される。
その後6年間、文字どおり手足として活躍してくれた運転手「Rosiid」
なかなかの男で、家庭車の運転手、女中たちには尊敬されていました。 案外とハニカミ屋さんです。
娘さん”は”、美人の大学生でした。
退職後、どうしているかな~。  運転テクニックは驚きの連続。 視線を合わせないで、幅寄せ・割り込みの名手。


会社・住宅は、ジャカルタの霞が関 モナスから約6KmのDr.Supomo

この写真のエリアでゴルフ場が4箇所。
ジャカルタお春のいたコタは上部の海辺の町(中国人街)
デビィ夫人のヤソオ宮殿も会社から近く。

 

 

見積課のスナップ。
大変お世話になった、Kasijan、Ir.Soesetyoや
Starnu、Suratno、Ir.Harris、・・・、懐かし~。
問題児Ir.Imanも人として大きくなっただろうな~
本社で、見積業務の合間に、飛び込みで企業訪問や、遠隔地のプロジェクトを担当や、見積書提出でインドネシア各地を訪ねることが出来ました。
1週間に、2度日本との往復など、それなりに忙しくもON・OFFを切り替えられる充実した日々でした。


赴任2ヵ月後の年末年始の休暇に、妻をジャカルタ観光に呼びました。
目的は、1年経過後の家族同伴許可の際の判断をするためです。 私自信が慣れきる前に同じ視点で判断するため呼びました。
積極的に、汚い・危険・貧富差を感じてもらうため、貧民窟にも入りました。(ドライバーは嫌がっていましたが・・・)
結果、現地で子供を二人出産するなど、私以上にインドネシアに溶け込んでいたと思います。


赴任1週間を過ぎると放ったらかし。
休日は、言葉が通じない運転手と二人で地図を指差しJakarta市内や近郊を散策。
ボゴールの植物園・プンチャック峠に遠出。 市内はモナスの塔に上がり四方を撮影。

 

 

 

 

個々の思い出は、後日追記します。

・遠方のプラント建設
・JAICAのローインカム住宅研究(イ国住宅局と日本の建設省の合同研究)
・三菱重工のトランスファークレーン製造
・大塚製薬のポカリスエットとブドウ糖点滴液製造
・原子力発電所のケーススタディ
・カウボーイ
・パソコン販売
・ゴルフ場
・子作りの渡り鳥
・etc

・単身寮時代(当初の1年間 旧単身寮/新単身寮、ドライバー1名)

・社宅入居(旧社宅/新社宅 妻+現地生産の子供2名、他ドライバー2名+女中3名の生活)


着任6年目を迎え、帰任の辞令がいつ下りてもよい時期に入った97’はインドネシアは長期にわたるスハルト政権のひずみが表面化。
国内が不穏な状態になり、ついに9月末に内示が有りました。
早速、引き継ぎ・引っ越しスケジュールを決め1月後にシンガポール経由で出国しました。

帰任後は「大阪本店」で配属も内示を受け、住居の段取りに苦慮しましたが結局、神戸の社宅へ決まりました。 「3LDKで社宅としては広く、須磨公園近くの環境が良い」で決定。
現在のように、インターネットが発達していたら多分違っていたと思います。
(妻の実家の両親には家さがしでFAXでのやり取り等、大変お手数をお掛けしました)

年を越すと、不穏は騒動に発展、外国人の一斉避難が始り。 当社も家族連れは本帰国となりました。
私たちは、直前だったので引っ越しも・出国もスムーズでしたが、直後の人達は大変だったようです。 その後、当社は家族連れ赴任不可の国でした。(今は、解禁かな?)

帰任時、現地スタッフから戴いた盾と6年間使用したペン入れ。
盾には、延べ42人の見積課課員の名前。
私の記念碑です。 一人ひとりの顔が浮かびます。

感謝の国と人々 Indonesia と PT.JAYA OBAYASHI

私に、人生の過ごし方と楽しさを目覚め・転換させてもらった国です。

Selamat の言葉の美しさを何時までも実感しています。

本帰国時、皆さんは深夜Jakarta発で早朝成田着の便を使われる方が大半ですが、私たちは子供の負担を考えて、昼間初のSingaporeの空港内ホテルで一泊、早朝の成田便としました。

社宅で、運転手・女中たち・カードマンに送られ空港に。
6年間、土曜日曜もなく付き合ってくれた運転手「Rosiid」と空港で最後の別れ。
本当に有難うでした。

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