会社員時代-”近畿エリア”

(大阪市内エリア)

1.〇〇組 本店で1月の研修(中央区北浜)

2.心斎橋パルコ<ニュー心斎橋ビル>(心斎橋筋)

4.広田証券本社ビル(中央区北浜)

(堺市エリア)

3.福助本社工場(堺市)

 

18歳 入社後、1か月の研修期間

研修期間中は吹田の独身寮から北浜の旧本店ビル前の研修施設(現本店ビルの場所)まで、阪急北千里線で通勤。  都会のラッシュの洗礼を受ける。
大阪万博の開催中で、大阪じゅうが沸いていた。
研修開始から1週間過ぎた4月8日夕刻、天六のガス爆発事故が発生、多数の犠牲者がでた。  これから工事に携わる者として身が引き締まるのを覚えた。

18歳 本店配属決定、「心斎橋パルコ」の工事事務所(大阪市中区心斎橋)

心斎橋筋を挟んで「ニュー心斎橋ビル」と「ブラザービル」、1駅先の難波に「葵ビル」の3件建設中の心斎橋工事事務所に配属された。

新入社員が4名配属、初出勤の日はゼネスト(懐かしい言葉)。寮からトラックの荷台にゴザを敷いて大阪市内へ護送され、大阪駅前で荷降ろし、各自移動。
工事事務所には昼前に到着。 所長から「飯を食いに来たのか? 😈 」 早速の洗礼を受けました。

パルコには、京大出(後の設計部長/意匠)と私の二人が配属。
私の上司は、阪大応援団長出身の勝さん28歳独身。(名前が応援団長にぴったり)
担当工事は型枠・鍛冶・斫・左官。 職種を覚えるのに当初は苦労しました。 職人さんには「ボク」と呼ばれ・・・。

とにかく忙しかった(小間使い)ですが、何せ最盛期の建設業。  色々な諸体験を会社経費で勉強させていただきました。

◆失敗談◆
半年経過後、先輩が「7階から8階までの階段コンクリート施工図を書いてみるか」と指示を受ける。 嬉しくて嬉しくて半年ぶりの三角定規。
私は図面のタイトルに7~8階と記入して施工図を作成、チェックを受け大工さんに配布。
1月後、所長が「設計変更?、9階テラスに出る階段が追加?」と上司に話している。
実は8階で止まる階段、私がタイトルを7~8階と表記したから、大工さんが7階と同じものを8階に造っている。
コンクリートを打つ前で良かった。 「ボクには、かなわんな~」と笑って許してくれた○○組の大工さんお礼申し上げます。
しかし、引退されるまで現場で顔を合わすたびに冷やかされたのには閉口。

※突然のニュース。
『心斎橋でファッションビルの草分け的存在だった「心斎橋パルコ」が30日、いったん“閉店”する。入居するビルの建て替えが理由で、跡地に建設される新ビルの完成に合わせて、平成25年6月にリニューアルオープンする予定』

19歳 「福助㈱ 本社工場増築工事」の工事事務所(堺市)

いきなり、一人先行乗り込みの現場。
堺駅前の地域工事事務所から自転車で現場に通う。
所長は前工事事務所(大阪空港)から電話指示で仮設工事から解体工事を担当。
二か月後に、工事事務所が完成。 残りメンバーも配属され所長以下、10人全員が揃う。

本社事務所前で「ボクちん」が一人右往左往しているのが目立ったのか、福助そっくりの総務部長さんや従業員の皆さんに可愛がってもらいました。  ある日、堺駅でバスを待っているとオールドベンツ(ベンツマーク4つ)から辻本社長が手招き。 そのまま、本社へ。 さすがに所長から大目玉。
竣工式のとき、当社社長(当時)が辻本社長にお会いした時、私の話題になり、後日会長から「我々の仕事は、可愛がってもらうが大事」と激励を戴きました。

創業家の亡くなられた会長は、よく一人でふらりと現場を訪ねてこられた。
私は、生涯で4度、体験しました。 本店近くの現場では昼食の帰りに、地方の現場では新幹線の待ち時間に(2時間も・・・)。
企業体を組んだ他社社員からも羨ましがられた社風は社長の影響大。

福助は残念ながら、2003年 民事再生法申請に至り、経営基盤が東京に移り創業の地である本社工場も大半が土地売却に伴い、築40年超で解体され、跡地は住宅地になっている。
敷地の一部が配送センターとして残っているのみ。

◆その他出来事◆
この年、浅間山荘事件が有りました。 徹夜明けで久しぶりの寮に帰ると全員がテレビに噛り付いてた光景を思い出します。  その後、日本赤軍の一連のリンチ事件も明るみに。

 

20歳 「広田証券㈱ 本社ビル」の工事事務所(大阪市中区北浜)

北浜駅を上がり、本店への通勤途上にあり、身内の眼を気にする日々であった。 交通量の多い土佐堀通りに面しており、解体・掘削・コンクリート打ち・鉄骨建て方の時期は夜間勤務、昼間は施工図作成。  工事事務所での寝泊まりが多かった。

この頃は、建築ブームで日々、職人さんの取り合い。
朝は業者の鉄筋加工工場に直行して夕刻まで加工。
トラック(4tロング)にその日加工した鉄筋を積み込み、自ら運転して阪大病院(中之島)の現場に横づけ、ゲートで職人さんを捕まえて現場に連れてくる日々であった。

← 40年前当時と変わらぬ工事事務所が健在であった。(左の写真)

近所の雲州そろばんの問屋が暖簾を残し古町家レストランに生れ変わっていた。 (右の写真)

㈱雲州堂  ムービーが面白い。 珠算大会でそろばんを使わないフラッシュ競技 😮 。

「dining IOR?I(イオリ)」 本店見積部に戻った時、お昼は毎日通っていました。
リーズナブルで静かで、一人で食事して中之島を散策して事務所に戻るパターン。
社員食堂で食事をして自席で昼寝が耐えられませんでした。 目の前に中之島公園が有るのに、あの黒いビルから一歩も出ないなんて!!!。

 

 

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