「会社員時代」カテゴリーアーカイブ

会社員時代-”Introduction”

広島市で生まれ・育ち18年。 2度の転居はあったものの

工業高校を卒業して大阪の大手建設会社に入社。 就職が決まってから伸ばし始めた頭髪を辛うじて七三に分け、背広姿も滑稽な田舎者が大都会 大阪で社会人スタート。
珍体験、計算尺人生そのものをエリアに分けて勤務順に振り返ります。

Hiroshima Map

〇〇組と中国電力の2社入社試験を受けました。
自宅から1Km以内の2社、道路を隔て向かい合わせの位置にありました。
両社は一次の学科・二次の面接・合格発表まで見事に半日ずれであった。(8時に電報・13時に電報)
〇〇組大阪本店の役員面接試験で「英語が悪いな~」と言われ、健康診断では検尿で蛋白が出て再検査の為、延泊。  不合格 😀 を期待していたのだが・・ 🙁 。

私の第一志望は中国電力。 父が戦前・戦中(戦中は朝鮮半島の電力会社出向)在職し、中国電力電気資料館は私の遊び場 😆 、土地勘もあり地元密着もいいなと思っていました。
駄目だったら自衛隊に入り、少し考えをまとめる時間を持とうと思っていました。

〇〇組は学校からの押し付け?。  「新設校一期生で大手企業から受験指定をやっと貰ったのだから、受けるだけでも・・・(担任)」
しかし、合格したら「合格して辞退したら二度と試験指定校されなく後輩が・・・・(校長+担任)が母親にプレッシャー?」  🙁

まっ、いいか 😳 でっ、会社員スタート

建設会社の施工部門の宿命。  この建物が出来れば、次は建物へ。
居を構えても、通える場所はそうそう無い。
別居手当・帰省手当が給与項目にある、そんな業界に身を置きながら、結婚後は恵まれた生活を送れました。 考え方を変えると、会社から旅行手当を貰っていたとも。

高校を出るまで、住まいは転々としたが広島市を出ることはなかった。
会社に入り世界にも広がった。
何より、伴侶を得、子供も授かったことで、人生も大きく広がった。

『人生も旅』、大切な伴侶を中心に、人生を大きく起承転結にまとめる。

・・・出合い・結婚・新婚時代(驚きと落胆を越え、若葉マークの如く手をとり)
・・・巣造り(インドネシアで子供の授かり。 本当の渡り鳥)
・・・子育て(帰国後、苦難を共に。 40年50年前の自分達の姿か・・・)
・・・夫婦二人(これからの人生、もみじマークでゆっくりと)暫らくは無理

 

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会社員時代-”近畿エリア”

(大阪市内エリア)

1.〇〇組 本店で1月の研修(中央区北浜)

2.心斎橋パルコ<ニュー心斎橋ビル>(心斎橋筋)

4.広田証券本社ビル(中央区北浜)

(堺市エリア)

3.福助本社工場(堺市)

 

18歳 入社後、1か月の研修期間

研修期間中は吹田の独身寮から北浜の旧本店ビル前の研修施設(現本店ビルの場所)まで、阪急北千里線で通勤。  都会のラッシュの洗礼を受ける。
大阪万博の開催中で、大阪じゅうが沸いていた。
研修開始から1週間過ぎた4月8日夕刻、天六のガス爆発事故が発生、多数の犠牲者がでた。  これから工事に携わる者として身が引き締まるのを覚えた。

18歳 本店配属決定、「心斎橋パルコ」の工事事務所(大阪市中区心斎橋)

心斎橋筋を挟んで「ニュー心斎橋ビル」と「ブラザービル」、1駅先の難波に「葵ビル」の3件建設中の心斎橋工事事務所に配属された。

新入社員が4名配属、初出勤の日はゼネスト(懐かしい言葉)。寮からトラックの荷台にゴザを敷いて大阪市内へ護送され、大阪駅前で荷降ろし、各自移動。
工事事務所には昼前に到着。 所長から「飯を食いに来たのか? 😈 」 早速の洗礼を受けました。

パルコには、京大出(後の設計部長/意匠)と私の二人が配属。
私の上司は、阪大応援団長出身の勝さん28歳独身。(名前が応援団長にぴったり)
担当工事は型枠・鍛冶・斫・左官。 職種を覚えるのに当初は苦労しました。 職人さんには「ボク」と呼ばれ・・・。

とにかく忙しかった(小間使い)ですが、何せ最盛期の建設業。  色々な諸体験を会社経費で勉強させていただきました。

◆失敗談◆
半年経過後、先輩が「7階から8階までの階段コンクリート施工図を書いてみるか」と指示を受ける。 嬉しくて嬉しくて半年ぶりの三角定規。
私は図面のタイトルに7~8階と記入して施工図を作成、チェックを受け大工さんに配布。
1月後、所長が「設計変更?、9階テラスに出る階段が追加?」と上司に話している。
実は8階で止まる階段、私がタイトルを7~8階と表記したから、大工さんが7階と同じものを8階に造っている。
コンクリートを打つ前で良かった。 「ボクには、かなわんな~」と笑って許してくれた○○組の大工さんお礼申し上げます。
しかし、引退されるまで現場で顔を合わすたびに冷やかされたのには閉口。

※突然のニュース。
『心斎橋でファッションビルの草分け的存在だった「心斎橋パルコ」が30日、いったん“閉店”する。入居するビルの建て替えが理由で、跡地に建設される新ビルの完成に合わせて、平成25年6月にリニューアルオープンする予定』

19歳 「福助㈱ 本社工場増築工事」の工事事務所(堺市)

いきなり、一人先行乗り込みの現場。
堺駅前の地域工事事務所から自転車で現場に通う。
所長は前工事事務所(大阪空港)から電話指示で仮設工事から解体工事を担当。
二か月後に、工事事務所が完成。 残りメンバーも配属され所長以下、10人全員が揃う。

本社事務所前で「ボクちん」が一人右往左往しているのが目立ったのか、福助そっくりの総務部長さんや従業員の皆さんに可愛がってもらいました。  ある日、堺駅でバスを待っているとオールドベンツ(ベンツマーク4つ)から辻本社長が手招き。 そのまま、本社へ。 さすがに所長から大目玉。
竣工式のとき、当社社長(当時)が辻本社長にお会いした時、私の話題になり、後日会長から「我々の仕事は、可愛がってもらうが大事」と激励を戴きました。

創業家の亡くなられた会長は、よく一人でふらりと現場を訪ねてこられた。
私は、生涯で4度、体験しました。 本店近くの現場では昼食の帰りに、地方の現場では新幹線の待ち時間に(2時間も・・・)。
企業体を組んだ他社社員からも羨ましがられた社風は社長の影響大。

福助は残念ながら、2003年 民事再生法申請に至り、経営基盤が東京に移り創業の地である本社工場も大半が土地売却に伴い、築40年超で解体され、跡地は住宅地になっている。
敷地の一部が配送センターとして残っているのみ。

◆その他出来事◆
この年、浅間山荘事件が有りました。 徹夜明けで久しぶりの寮に帰ると全員がテレビに噛り付いてた光景を思い出します。  その後、日本赤軍の一連のリンチ事件も明るみに。

 

20歳 「広田証券㈱ 本社ビル」の工事事務所(大阪市中区北浜)

北浜駅を上がり、本店への通勤途上にあり、身内の眼を気にする日々であった。 交通量の多い土佐堀通りに面しており、解体・掘削・コンクリート打ち・鉄骨建て方の時期は夜間勤務、昼間は施工図作成。  工事事務所での寝泊まりが多かった。

この頃は、建築ブームで日々、職人さんの取り合い。
朝は業者の鉄筋加工工場に直行して夕刻まで加工。
トラック(4tロング)にその日加工した鉄筋を積み込み、自ら運転して阪大病院(中之島)の現場に横づけ、ゲートで職人さんを捕まえて現場に連れてくる日々であった。

← 40年前当時と変わらぬ工事事務所が健在であった。(左の写真)

近所の雲州そろばんの問屋が暖簾を残し古町家レストランに生れ変わっていた。 (右の写真)

㈱雲州堂  ムービーが面白い。 珠算大会でそろばんを使わないフラッシュ競技 😮 。

「dining IOR?I(イオリ)」 本店見積部に戻った時、お昼は毎日通っていました。
リーズナブルで静かで、一人で食事して中之島を散策して事務所に戻るパターン。
社員食堂で食事をして自席で昼寝が耐えられませんでした。 目の前に中之島公園が有るのに、あの黒いビルから一歩も出ないなんて!!!。

 

 

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会社員時代-”中国地方”

【中国エリア】
広島支店配属時は、大きく分けて
1.広島市とその周辺
2.山口県宇部市
3.岡山市

<広島エリア>

<岡山エリア>

<山口エリア>

5.広島修道学園大学

6.神戸製鋼所 呉工場

7.三菱重工業㈱広島造船所

8.東広島CC、クラブハウス

9.広島支店建築部

10.岡山市新中央卸売市場

12.宇部興産ビル(全日空ホテル)

13.広島支店建築部

 


21歳 広島支店転勤

郵便小包で書籍類を送り、寝具類は処分、バイクに山積みして、大阪から広島までグリーンフェリーで移動。
取り敢えず実家に帰り、月曜日朝一に広島支店に歩いて出頭、辞令を受け取る。
「えっ!!。 沼田?、交通手段は?、これからタクシーでいくのですか?」
取り敢えず、自宅に帰り、作業着に着替えてバイクで現場に行く。
(地元だけに場所を良く知っている。 帰りの心配をして :mrgreen: )


21歳 「広島修道学園大学校舎新築工事」の工事事務所(広島市安佐南区大塚)

キャンパス全体の新設工事で大手建設会社の出会い現場。
建設時は道路が未整備で自宅からは直線で7kmでしたが山越え1時間越え。 でっ、現場に泊まり込み。
コンクリートは現場ミックスで全面打ち放し、コールテン鋼の建具で斬新な建物です。

作業員不足の頃で、所長命令でユンボの運転(無免許)を覚えました。(当時でも、会社の安全部に見つかったら懲戒もの) 今は実家の建設会社の社長に納まった新入社員”鼻くん”はダンプの運転手(国立一期の大学院卒)

帰省の折、キャンパス内を見学させて戴きました。 大切にメンテナンスされており感謝いたします。
今は、コンクリート打ち放し面は耐候性塗装されたのか白色に。

 

 


22歳 「㈱神戸製鋼所 呉工場 船体部品工場増築工事」の工事事務所(広島県呉市)

船体部品(船首・スクリュー・軸など特殊な加工を要する部分)を作る工場。
戦艦大和の主砲を作ったなど歴史ある工場でしたが、1987年閉鎖されました。
土地は国有地、建物は保税工場。
何せ、地上に見えるもの以外は何が有るか解らない場所の工事でした。

屋根のアングルトラスには艦載機からの機銃掃射による多数の穴。 銃弾が刺さったままもありました。  戦前から大型スクリューを作っていたため、掘削すると黄銅や真鍮の削りチップがザクザク。
地下ピットでは水銀の池(5×5×0.6m)を発見。 吸い取り・引き取り先探しなど、大蔵省との遣り取りもありました。

そんな訳で、掘削前の不発弾探索の超音波・磁気探索をするも削りチップetcで全面が問題ありの箇所。
手作業での掘削作業、残土と国有財産を手作業で振り分けて写真撮影後、ダンプに積み込み。
国有財産の目録作成等で女性事務員さんと毎日遅くまで残業。  翌朝搬出迄に写真添付の書類作りのため、ネガ現像・焼付けを自分でやったのも良き思い出。
また、不発弾が出る可能性のため手掘り作業に関わらず、戦前からの錆朽ちた高圧空気配管の錆を押えていた土圧が掘削で無くなったため、錆が飛び高圧空気が漏れ始め、木栓を打ち込むと余計に穴が拡がり工場全体を半日止めて復旧作業。 支店長が飛んできました。
4か月の短期工事でしたが、仕事も施主様とも楽しく過ごしました。


23歳 「三菱重工業㈱広島造船所 産業機械部化工機工作課ライナック建屋・他」の工事事務所(広島市中区)

後年、「原子力発電所もんじゅ」に配属の要因となった「放射線防護建物」

壁厚2mコンクリート壁・重量扉・重量物搬送システムが目玉の工事
重量物搬送システムはエアーパレットを使い数百トンの化工機材を工場~ライナック施設~船着き場への移動を大型重機を使わないで行えるものです。
広い工場に三菱以外の車は入れず、毎日ゲート近くの広島空港の駐車場に車を停め、工場先端にある工事事務所まで3キロを徒歩通い。
毎日、各工場を抜けて現場と工事事務所を行き来しながら見学出来て楽しかったです。
ステンレスライニング溶接・プラズマ溶接etc。

◆お笑い◆
エアーパレットの路面をモルタルで±1.5mm以下に押える。(日々、レベル(測量機器)で左官屋さんと合い番作業で3週間後完成)
全面レベル検査後、三菱側に引き渡し完了。
三菱側で、モルタル面に厚鉄板を全面敷き詰め継ぎ目を溶接。
工場建屋内は順調に進捗。
「・・・えっ、ウソ!!」屋外も同じ仕様?、工場から岸壁までも同仕様???。
ある晴天の日、鉄板が大きく(1.0M)浮きあがる。
ジョイントなしで大面積、建物の日蔭と日向の温度差による伸縮でこの結果、考えが至らなかった?。


24歳 「JR広島駅本建屋増設工事」の工事事務所(広島市南区)
下記工事着手までのつなぎ(所長の職員キープ)

24歳 「東広島CC、クラブハウス新築工事」の工事事務所(広島県東広島市)

何もない山中の工事だったが、これも良い経験をした。
屋根全面が銅版葺き。 現在は写真で見ると非常に良い緑青が出ている。
山陽本線の八本松駅前のアパートから雨の日も雪の日も10キロの道のりを、後輩をカブの後席に乗せて通ったのが懐かしい。 ぬかるんだ山道をスリップして何度も転倒。 二人とも大笑いしながらの通勤。
後輩は、何度も海外勤務を経験、寡黙でタフさは磨きをかけ、第一線で現場管理者として活躍している。


25歳 「広島支店建築部」常設部門で営業(積算)

建物の価格算定の基となる数量等を算出、明細化する作業。
限られた図面を取り合いながら計算書を作成、集計、明細化。
この当時は、すべて手書き明細。 そろばんと計算機(現在のノートパソコンくらいの大きさ)を併用して入札期限に追われての作業でした。
忙しい時は徹夜、暇なときは読書や試験勉強。  On・Offのはっきりした仕事でした。

三角定規と3B鉛筆を使い、勘亭流風の癖字でお客さんにも有名でした。
故に、談合の明細に使えなかった :mrgreen:
出向いての作業も多く、最高裁判所では大法廷や皇居をバックの貴賓室等を見学、大法廷の裁判員席に座った経験も。(背もたれが異常に高かった)

しかし、好き勝手が出来た期間でしたが、どうも常設は性に合わなかった。何時も逃げ出す手段ばかりを考えていた。
「建築士試験の勉強」と「組織の他部署との交流」には良かった。

広島は、こじんまりとした街です。
広島弁がしっかり健在。(標準語をまねても、しっかりイントネーションが) 言葉使いからか、ガラ悪い印象の田舎っぽい県庁所在地です。  一応、政令都市
東映「仁義なき戦い」は実録かな?。 身近に感じたこともあったのも事実。
因みに、通った小学校は広島刑務所と広島少年鑑別所の間にあった。 狭い中州(吉島)に、平和公園・高級国家公務員宿舎と同施設が混在。この官有無番地に中学まで居住。


29歳 「岡山市新中央卸売市場新築工事」の工事事務所(岡山市) 

広い広い、平らな敷地でした。
現在のようにレーザー測器がなく、光学式トランシットで直線と角度出し。
長さは、日の出前に温度計を片手にスチールテープ+ばね重量測定器+トランシーバーでポイントを決め・・・。
時間と精度の勝負。 遣り方時は自家用車を持ち込み各ポイントへ移動しました。

建設技術者として無事故で10年経過、更なる無事故へのマイルストーンとなった現場でした。
ある日、隣接の工場内での発生した悲しい事故に接して、「物を造ることは同時に危険要因も作る」という戒めを知らされ、「安全は日々発見することの努力の重ね、そして心に留め祈る」の大切さを教えられたところです。

仕事以外では、見物に招待されたこの地方のお祭り「西大寺の裸祭り(会陽)」に、招待者が危険だからと引留めるのを振り切り、褌を締めて飛び入り参加。 実際、怖い目(刺青有り)をしましたが、「”枝”神木」を取って帰り、皆が呆れ驚かれたのも懐かしい思い出です。  (但し、体中青アザと肋骨1本がひび)  ※枝神木とは宝木を造った時の余り

◆感謝◆
後年、事故当事者の一人であった当時3・4歳頃の少女本人から、このブログの10行も満たない一節を読まれて、私に連絡を下さいました。
現在は、お幸せなご家庭を築かれ、お子様にも恵まれ異国の地でご活躍の報告。 突然に、ふっと脳裏に重く甦る心配事が、定年退職の年に晴れました。

改めて、努力し耐え、最後は願いと祈りを心静かに合わせることの大切さも教えて戴きました。感謝しております。


30歳 「ヘルス・スパ広島建築工事」の工事事務所(広島市南区) 

山陽新幹線の新広島駅ホーム高架下にプールを備えたフィットネスクラブ。
当時は、国鉄関連会社の経営でしたが、現在は東急スポーツ・オアシスに経営移管。
プールやサウナを備えたファッショナブルな本格的スポーツクラブは珍しく、何度かマスコミの取材を受けテレビに登場。
地元だったので、学校の先生・クラス仲間や近所の人に冷やかされた。 (狭い広島市 🙁 )


31歳 「宇部興産ビル新築工事」の工事事務所(山口県宇部市)

宇部興産の本拠地に、国際会議場・全日空ホテル・事務所棟からなる記念的大規模施設。
思い出多く、楽しく、勉強になった。 工事関係者はもちろん地域住民との触れ合い多く、実りある現場でした。「建設は人」だなと実感と確信の現場でした。

私の会社人生、4コーナー(宇部興産ビル、もんじゅ、なんばパークス、JayaObayashi)の第一コーナーです。

 

数々の思い出の詳細は、後日に記載します。

1).設計は村野藤吾
2).宇部興産中安会長の記念的施設。渡辺記念館(国の重要文化財)、俵田体育館に続く
3).地下の石炭層
4).地下水によるもやし栽培
5).大成建設とのJV工事
6).大成建設の逸材の派遣、末は社長か
7).施主サイドの若手技術担当者
8).近隣さんとのお付き合い
9).全日空 若狭社長
10).各種工法のオンパレード
11).最終施工の「近鉄上本町ビル(新歌舞伎座)」とのつながり
12).村野藤吾氏と円鍔勝三氏との超越の遣り取り etc


33歳 「広島支店建築部」常設部門で営業(積算)

勝手が過ぎて、またもや牢獄入り。
人生で一番派手な時期。 イクオール、叩けば埃が湧き出る期間。

 

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会社員時代-”2度目の近畿エリア”

近畿エリア】
2度目の気分は戻ってきたぞー

14.高速増殖炉もんじゅ発電所

15.辰野心斎橋ビル

16.〇〇組 大阪本店

 

16.〇〇組 大阪本店


35歳 大阪本店転勤辞令

転属内示(高速増殖炉もんじゅ発電所/敦賀)を受け、一週間の休暇を取り、荷物を片付けと発送 + 諸々の身辺整理 😳 。
週末、愛車セリカXXで大阪へ移動。 途中、岡山に立ち寄り、足取り痕跡の消去 😳
黒塗り社用車一色の本店地下駐車場に広島ナンバーの遊びクルマを駐車。
建築事業部へ3月31日(月)am8:30ジャストに出頭。 4月1日付け辞令を受領。

関連部署へのあいさつを早々に済ませ、昼食を最上階レストランで同期が見送り会 🙁 を開いてくれる。  本店直轄工事と言っても6年間、北陸だ~。
一路、名神高速を東へ、米原JCTから北陸自動車道へ、急に車が途絶え寂しい気持「あっ~~ 裏日本だ~」

当日は工事事務所に入らず、敦賀市内の「建設途中の飯場」で所長以下職員のご帰宅を食堂で待つ。
7時過ぎ、大型バス・マイクロバスの到着。紺色の特攻服?姿の人波・・・。
職員60名超えに挨拶回り。 食後、浴場へ、まるで銭湯・・・・。 がっ、第二の人生 敦賀の始り。


35歳 「高速増殖炉もんじゅ発電所
原子炉建物及び原子炉補助建物新設工事」
の工事事務所(福井県敦賀市)

この日本海の荒波に建つ「もんじゅ」の姿が、
5年間 工事事務所の机から外を見えてたイメージ。
夏の海水浴客で溢れる敦賀半島からは想像できない冬の日本海。

敦賀市と敦賀半島

敦賀半島に3か所の発電所

先端が、日本原子力発電所(1、2号機)、隣接して日本原子力研究開発機構の新型転換炉「ふげん」(廃炉)。

次にあるのが、日本原子力研究開発機構の高速増殖炉「もんじゅ」。

手前にあるのが、関西電力の美浜発電所(1、2、3号機)。

右下が敦賀市、北陸トンネルの西側入り口があり、東名高速から北陸自動車道に入り北陸の入り口の都市。

もんじゅのある白木の集落

関西電力美浜発電所を通り過ぎ丹生集落に入り山へあがる。 峠手前のトンネルを抜けると白木の集落ともんじゅが一望。
工事中はトンネルを出たところに工事事務所を構えていました。 管理・事務部隊はここで下車。
工事部隊は、さらに奥に進み管理ゲートを通り、トンネルを抜けてサイト内の工事事務所で執務。
昼食時はバスで手前の事務所に来るだけのまるで刑務所。 連絡は定期的に巡回するマイクロバスで行き来。
公共機関は無く、歯医者などはその都度、統括所長専用車を予約して通院。

86年6月 建設途中の現場を本事務所から望む。

左下が白木の集落。
左側、海の向こうは越前海岸。 東尋坊へと続く。
左のプレハブが本事務所。 手前は鉄筋加工場。

工事事務所2階の私の執務スペース。 設計部に隣接してコーナーに籠っていました。
視線の先に現場と越前海岸が一望。
机が広い(1.8×1.8)のは図面を複数広げて作業するため。前面・裏面・側面は計算書ファイルで一杯。
奥の部屋はコンピュータ室(当時はセキュリティがバッチリ。原価管理を行っていたのでJV他社スタッフ出入り禁止)
NEC N5200 LANシリーズ フロッピーディスクは8インチを使用。(団扇兼用 :mrgreen: )

 

左上から時計回りに、①白木漁港よりもんじゅを望む。②白木漁港、白木漁港の岬突端(秘密の場所)、白木神社。

敦賀半島の先端部の日本海に突き出した場所にある集落。
伝えによれば朝鮮新羅城の新良基[しらき]の渡来人の集落と言われている。
昔は陸の孤島で隣の集落へは船で行き来する交通の不便な場所だったが、もんじゅ発電所建設でトンネルが整備され便利になっています。
2010年に家族旅行で立ち寄った際には、集落にバス停が有り驚きました。
海岸まで山が迫り平地がない場所で畑も作れず、かつては集落(12戸?)の長男だけが家を継ぎ、それ以外は村外へ出るしきたりだったと教えてもらいました。

集落の奥に赤い小橋、渡ると白城神社の境内。「白城」は「新羅」のこと。新羅人が、彼らの祖神(彦波瀲武鵜草葺不合尊の御子・稲飯命/新良貴氏の祖)を祀った神社で、境内右手に鳥居があり、階段上に神門。 垣の中に神明造の本殿が南向きに鎮座。
創立年代は不詳だが、鵜羽明神とも呼ばれた神社。周囲には縄文土器なども出土しており、古くから存在していたと考えられている。

夏は海水浴客で一杯の水晶浜

この若狭湾に面した海岸線の道路を、毎日大型バスに揺られ通った。
四季折々、海の色の変化を楽しんだ。  但し、海水浴シーズンは帰路3時間コースには閉口。

毎日、昼休みは白木トンネル上部の旧峠道をジョギング。 雨の日は白木トンネル内の側道をジョギング。  写真右下は峠道の頂部。

 


因みに、この地で遠距離恋愛の末、結婚しました。 (別述、生活編で)

建物の建設が終盤を迎えると、三菱重工・他の機器側に総轄所掌が移り、建設メンバーも徐々に転勤が始まる。 建設メンバーは統括所長を以下、関西空港へと大半が転勤していくことになる。
統括所長が関空へ転勤前(1年前に先行)に直々、
「永年の裏方業務、有難う。 広島に帰りたいか、行きたい部署は有るか」と聞かれ、
「地域は問いません。 見積・積算業務はコンピューターの過渡期に中心部署に居なかったので出遅れです。 また、現場施工管理もこの5年間 離れています」
「どうせ、ゼロからスタートならば海外でも結構です」と返答。

1年後、統括所長のS後任所長より、転勤辞令を受ける。
「〇〇所長より、引き継ぎを受けている。 特異な経歴を活かせるよう本店人事と協議している。 関西空港は長期・大規模工事、また業務の一部分だけを担当することになる、君の経歴と才能と活かすため、中小規模現場の長でマネジメントを勉強してくれ」
と、気恥ずかしい配慮 😳 を戴き、しばらくして「辰野心斎橋ビル」に配属が決まりました。

 


◆その後のもんじゅ

2012.07.04
日本経済新聞朝刊より


40歳 「辰野心斎橋ビル(大丸本社)新築工事」の工事事務所(大阪市中区)

新入社員で最初に配属された現場と、御堂筋を挟み100mと離れていない現場に配属されました。
大阪城下の街づくりの名残で、背中合わせの隣地との間に石組の排水溝が残る場所でした。
先人の素晴らしさを知りました。
御堂筋の高さ制限(31m)の建物と銀杏並木の大通り。 好きです。
2012年より、御堂筋が国から大阪市へと所掌移管。 橋下市長「浪速のシャンゼリゼ通り」をお願いします。

「松田平田」設計のシックな建物。
設計当初は、大丸の本社機能が入る事務所建物で進めていました。
下記理由により、変更経緯は解りません。

この現場の所長は、地位を求めず・派手を好まない素晴らしい”人”でした。
イケイケのエリート社員も・業者も・本店の管理者も集まる人柄。
力でなく、人として組織を動かす魅力が有りました。


近隣問題も調整がつき、杭工事を始めた6月のある日。 現場の仮囲いをしきりに覗きこむ人がいると、ガードマンから電話。
急いで現場に駆け付けるとビルの影からから「手招き」する人あり。
何と、技術部門の人事担当課長と見知らぬ人(海外担当重役)が・・・「所長に内緒で、チョット喫茶店で話ししない?」

◆要点◆

『インドネシア海外法人の見積担当マネージャの候補に挙がっている。 一月前に所長に話したが拒否された、先週、再度お願いしたら「本人も嫌と言っている」とのこと、今日は本人確認に来た』
『えっ、私、知りません。 やぶさかでないです。 ただ、工事はこれからです。 私が抜けたら所長に負担が・・(実際は、現場管理を知らない私を教育する負担が解消・・・ :mrgreen: )』

で、その後立ち消えとなり、地下掘削が終わり、これから上へ向けて基礎着手で一段落ついた8月始めの所長とビールを飲み始めると「実はなー、昔、人買が来てな~、追い返したで。 配属途中で引き抜くとの最初の約束だったが」。
「・・・・・」。
これで全てを理解してくださり急展開。
後に部長・大工事事務所統括所長をする、広島支店見積部在籍時に机を並べたエース後輩(実家にも遊びに行った)が後任で来てくれ、引き継ぎ。


40歳 海外勤務準備で常設勤務(本店、建築見積部)

夏期休暇明けより、本店見積部(元インドネシア現地法人社長が部長)でトレーニー、重役面接、就労許可手続き、予防接種等の渡航手続きを開始。 (無犯罪者証明書を警察本部に申請も :mrgreen: )
現地の就労許可が下り次第、渡航することとなる。 予防接種の2回目は結局、現地で行うことに。

◆もんじゅ発電所からの転勤時、「海外も含め何処に行くか解らないよ」に対して、「貴方、命、地の果てまでも」の言葉をもらっていたが、イザ現実になると「・・・・・・」 🙁

でも理解できる。 子供を待ち望み(夫の齢を思い :mrgreen: )、痛い思いをしながら不妊治療を受けている最中に・・・。 (然し、南国は大正解 😳 )

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会社員時代-”3度目の近畿エリア”

46歳 大阪本店に帰店

成田到着後、都内のホテルで一泊。
翌朝、私は本社に帰任挨拶を済ませ、家族と共に東京駅から大阪へ。
新幹線は個室を取り移動、運転手・女中のいない生活と日本人のセカセカ生活に、どっと疲れが・・・。
その日は、ホテルに宿泊。 翌朝、大阪本店にて辞令を受け取り配属部署に挨拶後、一週間の帰国休暇取得。
神戸支店の総務担当者の案内で須磨社宅へ。
当日は、神戸のホテルに泊まり、家財が届く1月後までの、差し当たっての寝具・日用品を買い出し。
あっと言う間の一週間。


46歳 「本店建築見積部」常設部門で見積

人生で、最悪の部署。  特別化が進み「財務省」的な組織。
課長辞令を貰ったものの、ほかの課長・副部長は何か変?。
会議で報告のみ。 方針報告・マネージメントが希薄。
部長は一番弟子に同意を求め、他の役職者には指示のみ。
配属、一週間目にして違和感が沸く、留めは人事異動の出来事。

事前に総務部より人事異動に関して「お祝い等の禁止」の通達があり、建築部内の人事異動の「お祝いの回覧」に、配属直後で面識もないためサインしませんでした。
これが大間違い。 当部長の上司になる人で自分の出世に関わる人、「通達を無視してするのが部員としての忠義だろう」とあからさまに注意される? 🙁 。
一週間 頭を整理して、こんな組織は可笑しいと人事担当部長に「転属願い」を申し出。
それが、当の種なし部長にカチン 😈 。 その後、子分を通じてネチネチと(手元に置いて、左遷してくれない。 給与も最低査定)。
その一番弟子には、7年後の定年前に再度、ネチネチ。
書くネタは山ほどあるが、存命につき。


48歳 「なんばパークス(先行・後行・2期全工期)」の工事事務所(大阪市浪速区)

延べ6年在籍。 原価管理を担当しました。 何よりも、上司・お施主様に恵まれました。
良き上司には、仕事も・上司も部下も、そして協力業者も集まってきます。

儲けさす・利益が出るを条件に引き寄せるのではなく、傍にいるだけで豊かな気持ちになれ、この人の為なら死ぬこともいとわないと思える上司でした。(2歳違いですが 🙁 )

60年の人生で「建物造りでなく人を造るのだ」と教えて戴いた上司や同僚、そして御施主様の三位一体のプロジェクトでした。

書けば書くほど、帰国後の他の所属長とのギャップが違い過ぎ、同じ紙面上に載せることは当現場の上司に失礼なので辞めます。 格が違います。


56歳 「シャープ堺新工場 コーニング建屋新築工事」(大阪府堺市)

(写真上) くい打ち工事工事中

(写真右) 左下に道路に添って伸びる建物。
コーニング建屋(液晶用ガラス工場)

コーニング社の建物で第10世代(2850×3050サイズのガラス基板)の液晶用ガラス工場

シャープの新工場内のコーニング建屋を当社が建設。 他建物はS建設、統括管理はS建設、自分の島に他社が入り好まれなかった?。
安全対策はコーニング社によるアメリカ式でゴーグル・4点式安全帯での作業でした。
同じ敷地内でも、他社と安全対策が異なっていました。

突貫工事で、陸の孤島にあるため、自宅を5時過ぎにでて、堺駅に6時30分。
専用バスに乗りゲート前の工事用車両の渋滞で乗車時間1時間(通常、15分)。
さらに、場内バスに乗り換え外周を巡り15分でやっと現場到着。

工事途中から、バイク(乗用車不可)で片道40Kmを通っていました。
真冬は危険なため、始発電車にのり堺駅から自転車で6Kmを海からの向かい風のなか漕いで7時45分に到着。

こんな苦労や、他社は死亡事故を出して完成の工場も、3年後は身売り。
因みに同時期に当社が建設したパナソニックの尼崎工場も、閉鎖。
我が家から、大阪湾に面して両工場が見え複雑な心境。(目障り 😐 )


57歳 「近鉄上本町ビル(上本町YUFURA)新築工事」の工事事務所(大阪市天王寺区)

新歌舞伎座が入居の建物。

村野藤吾先生の宇部興産ビルを建設した時、隣接の都ホテル・近鉄百貨店に見学に来たことを思い出す。


59歳 「本店建築見積部」常設部門で見積

前現場での「財務省」の仕込みが色濃く感じた。
また、業者談合行為を指摘したことから、予想の異動先にBingo。

「財務省」を確信。 定年退職準備に入る。


60歳 定年退職

思ったほど、特別の気概・感傷がない一日でした。

妻への感謝と、子供たちの健やかな成長を節に願うばかりでした。

5か月前から休暇を取得して、次の準備に気持ちが移っていたこともあり、
過去の出来事の感覚。

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