村瀬康治 MS-DOS三部作

980年代パソコンの日本語表示はCPU能力が低い為、本体に組み込まれた日本語表示ROMに頼っていた。 OSはMS-DOS、アプリもDOSベースでコマンドで起動。

初めてのパーソナルコンピュータ(PC)は、24Bitマシンで最初の機種「NEC RA21」をセット(総額110万円超)をローンで購入。
PC本体、プリンター、アプリ(一太郎、花子、桐、Lotus123)、デスクの一式

起動の順番にメモリーを割り当て、FEP(日本語表示)を置き、アプリケーションの起動・終了毎にメモリーの開放・再割り当てetc。 本書を参考に、マイフェイスというエディタを使い、bat や exe ファイルを書き換えて今では当たり前のメニュー画面等を創っていた頃が懐かしい。
今はすっかり忘れましたが、未だにフォルダをディレクトリーと言っている私です(笑)

パソコンには取扱説明書と共に、分厚いMS-DOSの書籍が付属していました。
本格的な内容の図書ゆえにボックスに入れたままで、初心者ゆえに書店で参考書を探し求め、「入門」「実用」「応用」に魅かれ購入。
おかげで、当時はネット環境が一般的でないうえに日本語技術情報が乏しいJAKARTAの地でも、米サーブやniftyにパソコン通信にモデム接続で情報収集・発信を行うことが出来ました。
しかし数年で、Windows3.1発売、インターネット環境が整備される激動の時期をインドネシアで過ごしました。

1990年当時、日本ではPC-98 対 DOS/V(AT互換機)と騒いでいた頃でしたが、パソコン=DOS/Vが常識でDOS/Vの言葉を使わないJAKARTAのパソコンショップでは、DOS/VがMS-DOS5.0と思われ通じなく困りました。 AT互換機はアルファベット使用しない国だけに通じる言葉でした。

とは言え、日本でもAT互換機はマニアの対象。 パソコン雑誌ではデックやウシマーク(Gateway)、山口のフロンティア神代、マザーボードやメモリーなどパーツの通信販売など、さながらバイク雑誌の巻末広告のようで遠い存在でした。

本帰国して2年後、配属された大規模開発プロジェクト”Nanba Parks”の現場は南海球場を含むエリアの再開発。 南海線のガードを潜ると電気街 日本橋。
昼食後や帰宅時に電気街を探索。パソコン・パーツが、ぐっと身近なものとなりました。 孟母三遷の如く、住環境は大切ですね。

NEC RA21を購入したの、もんじゅ高速増殖炉発電所建設工事で赴任していた福井県敦賀。 音楽家の大学教授の家だった豪邸の借家には40畳の音楽ホールがあり、妻のグランドピアノと並んで私のパソコンデスクが鎮座。
2年後のインドネシアへの海外赴任時は、パソコンの説明書に記されていたのを遵守。 通産省に輸出許可を取って、ピアノ・家具と共にジャカルタに搬入。
日本のニフティのアクセスポイントに国際電話で接続。 今では想像がつかない高額なIT生活でした。 2年後に、世界展開のMicrosoft NetworkのJakartaポイントに接続できるようになりましたが・・・(汗)

そのMicrosoft Networkは6年後には世界展開から撤退。 メールアドレス変更やら大変でした。


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