会社員時代-”Introduction”

Hiroshima Map

工業高校の新設の建築科3年生の夏、教師から言われるがままにゼネコンO組と中国電力の2社入社試験を受けました。
(入学当初から、地方の工業高校で新設の一期生だから大手の求人は無いと教師から聞いていた。 担任が自衛隊施設局からの転職で仕事内容を聞いて、父の長い闘病生活も公務員でよかったと実感していたので、就職は国家公務員の自衛隊施設局に内心決めていた)

自宅から約1Kmの位置に、隣接して中国電力本社とO社広島支店がありました。

中国電力は父が戦前(統合前の米子配電に在職)・戦中(朝鮮半島の電力会社出向)在職。 中国電力の電気資料館には、よく行って遊んでいた。土地勘もある地元就職の中国電力がよいと思っていました。

ゼネコンO組は大阪本店での役員面接で「英語が悪いな~」と言われ、健康診断では蛋白が出て翌日ひとり再検査。不合格かな?と確信。
元々、「新設校一期生で大手企業から受験だけでもと、お願いして貰ったのだから、受けるだけ(担任)」と学校からの押し付けで受験。
そもそも建築科でビル建築の授業は無くに等しい。広島市内で31m超えビルが無く、総合建築業の”general contractor”の略が「ゼネコン」と建築用語の説明で言葉だけ知っている程度。 就職先に毛頭考えていなかった。

両方とも駄目だったら自衛隊施設局。 それも駄目だったら、バイトで貯金をして、大学進学などの少し考える時間を持とうと思っていました。


一次学科試験、一次面接試験は各々広島で受け、合格後の二次面接試験は中国電力は本社(広島)で自宅から徒歩で行き、O社は本店(大阪)に当時は新幹線は無く、山陽本線の急行あさかぜで前日から指定の社員寮に宿泊。 初めての一人旅、指定の社員寮に辿り着けるか、社員寮での行動など、面接前から試験を受けているようでした。

ゼネコンO組で一人だけの健康診断の再検査を午前中に終え、夜半に自宅に着くと翌日が「中国電力の最終役員面接」の知らせが来ていた。
再検査で延泊すると電話しただけなので、いつ帰ってくるのかと担任と義母が一緒にやきもきしながら自宅で待っていた。当時は携帯など無く連絡が取れず、かといってO組に言づけが出来ず、一期生の初回から欠席したでは大事だと学校も校長を含め私の帰りを待っていたとは、つゆ知らず。


両社の採用合格通知の電報が、同日の午前にO社、昼過ぎに中国電力が自宅に届いた。当然、私は中国電力への希望をもって担任へ翌日報告。
何と、職員会議をひらく大騒ぎ!!

師曰く「合格して辞退したら二度と入社試験の指定校が取り消される」

結果、「先方には通知の遅かったことを理由に中国電力を辞退。就職はO社にしなさい」に学校が決定!!
学校(校長+担任)が家庭訪問して母親にもプレッシャー?
私は、大人が驚くほどゼネコン知らないし・こだわりがある訳ではなし。

「まっ、いいか」  でっ、ゼネコン社員スタート

建設会社の施工部門の宿命で、この現場が終われば次の現場へ。
居を構えても通勤できる現場が続くことは少なく、引っ越しを繰り返すか単身赴任の生活が普通。
別居手当・帰省手当が給与項目にある業界に身を置きながら、幸い私は恵まれた生活を送れました。
とは言っても、16回の転居を経験していますが「会社から旅費支給で長期旅行」できたと思えるほど、家族の理解と家族にとって転勤が良い経験・方向づけを与えてくれた転勤・転居でした。


高校を出るまで、住まいは転々としたが広島市を出ることはなかった。
会社に入り世界にも広がった。
何より、伴侶を得、子供も授かったことで、人生も大きく広がった。

『人生も旅』、大切な伴侶を中心に、人生を大きく起承転結にまとめる。

・・・出合い・結婚・新婚時代(驚きと落胆を越えて若葉マークの如く)
・・・巣造り(インドネシアで子供の授かる渡り鳥)
・・・子育て(帰国後、苦難を共に)
・・・夫婦二人(これからの人生、もみじマークでゆっくりと)暫らくは無理